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札幌の本格的なジャズ喫茶 [店舗案内]

 店名は「JAMAICA」。今年(2006年)で45周年を迎える。アート・ブレイキーやビル・エバンスも足を運んだ店である。マスターの樋口重光氏と、妻のママと、娘の三人が主に切り盛りをしている。マスターのいる日にはアルバイトの女性もいる。
 ここはコーヒーがうまい。コーヒー豆の産地を店名にするほどである。しかし、昔はコーヒーの名前を店名にする喫茶店がよくあったらしい。今ではそのような店名の付け方は珍しくなった。酒も置いてある。マッカランなどがあり、ノーチャージでショットを頼んだり、ボトルをキープすることもできる。
 オーディオの迫力はかなりのものがある。オーディオに詳しい人でも聞き入ってしまうことだろう。スピーカーはJBLのPARAGON。二台のレコードプレイヤーはTHORENS(トーレンス)。
 店内の壁一面にレコードとCDが二万一千枚ある。
 マスターはアート・ブレイキーと酒を酌み交わしたことがある。恐らく話が弾んだことだろう。それは店にあったブレイキーのレコードの本人のサインが物語っている。「FORGET ME NOT」。
 ジャズ喫茶全盛の頃は店内で雑談ができなかったとのこと。まさにジャズを聞いて楽しむための店だった。当時の学生はコーヒー一杯で何時間も粘ったようである。今では店の人と、あるいは客同士で会話を楽しむこともできる。店に来る客は曜日と時間帯によって違ってくる場合がある。店の人が曜日によってそれぞれ分担して働いているためである。なかにはこの客は何曜日の人、と決まっていることもある。店の人の人柄に惹かれているためと思われる。もちろん、純粋にジャズを楽しむ客もいる。リクエストができるので、好きなジャズを良く響く音で満喫することができる。この音は店に足を運んだ人にしか分からない。
 一度店の扉を開けてくれることを願っている。



ブレイキーのサイン
A JAZZ MESSAGE / ART BLAKEY QUARTET '63



追記

 この文章は季刊誌『札幌人』2006年秋号に自分が読者投稿したものです。このブログに載せるためにマスターと『札幌人』の許可を得ました。


AUDIO SYSTEM [オーディオ]

SPEAKER: JBL PARAGON D44000
POWER AMPLIFIER: MARK LEVINSON NO.333L
AMPLIFIER: MARK LEVINSON ML-1L
RECORD PLAYER: THORENS PRESTIGE (2台)
TRANS: PARTRIDGE TH-7834Ⅱ
ARM: S.M.E. 3012, EMT 997
CARTRIDGE: ORTOFON SPU-GE, EMT TSD-15
CD TRANSPORT: WADIA 270
D/A CONVERTER: WADIA DIGITAL DECODING COMPUTER



スピーカー
JBL PARAGON D44000


アンプ、プレイヤー、トランス
上からMARK LEVINSON NO.333L, MARK LEVINSON ML-1L, WADIA 270, PARTRIDGE TH-7834Ⅱ, THORENS PRESTIGE (2台)


D/A CONVERTER
WADIA DIGITAL DECODING COMPUTER


札幌のジャズ喫茶「JAMAICA(ジャマイカ)」より

9月29日(月) [追悼特集]

Miles Davis 追悼特集

一日遅れでやります。

7月17日(木) [追悼特集]

john coltrane
billie holiday

この日はこの二人だけかけます。

「JAMAICA」でもらった言葉 [客の一人として]

 マスターが何年か前に言っていました。
 「一所懸命働けば、誰かが見てくれる」
 それを自分はこの頃実感しています。懸命に働いているうちに職場の人間関係が良くなったためです。マスターにいい言葉をもらいました。
 また、常連客のSさんはこんなことを言っていました。
 「人のおごりのフルコースより、自分で稼いだみそラーメン」
 この言葉も自分にとって心に響きました。自分の稼ぎで楽しむことを改めて思い知りました。有り難い言葉です。
 二人とも自分より年が上なので、飯の数が違うとそれだけ人間としても違うものだと感じました。妻も子供もいるこの人達に言われると先程の言葉に重みを感じます。
 「JAMAICA」では喜怒哀楽を味わいましたが、あきらめずに通い続けて良かったと思っています。思い入れの強い店です。

マスターが挙げる札幌のジャズマン [掲載記事]

[マスターが『Swing Journal ジャズ読本2008』(2007年12月臨時増刊号)の「ご当地ジャズマンを探せ!」のコーナーで取材に応じました。]

 マスターによると札幌のジャズマンといえばこの三人です。
 黒岩静枝さん(vo)、福居良さん(p)、舘山健二さん(ds)。
 黒岩さんはライブ・ハウス”デイ・バイ・デイ”のオーナーであり、”スージー”の愛称で親しまれています。老若男女を問わず幅広いファンに支持されています。ソウルフルな歌声は必聴です。
 福居さんはジャズ・クラブ”スロウ・ボート”のオーナーで、札幌を拠点に神戸・名古屋・東京・大阪等を毎年ツアーで回っています。バリー・ハリス仕込みのバップ・ピアノに魅了された札幌っ子は多いです。
 舘山さんは4歳でオルガンを、11歳でドラムを始めた逸材。現在は自己のトリオを中心に矢野沙織、向井滋春らとも共演してます。
 北海道のジャズ・シーンは充実してるでしょう。

[この内容をここに載せるためにマスターの許可を得ました。(株)スイングジャーナル社からは、そのまま転載しなければ良いとの返事をもらいました。]


耳を澄ます [客の一人として]

 自分のジャズとの出会いは「JAMAICA」との出会いでもある。
 「JAMAICA」の扉を初めて開けて以来、ここに通っていくうちにジャズを好きになった。そのうち自分でもジャズのアルバムを買うようになる。いつしか自分の持っているアルバムがこの店でもかかるようになった。リクエストをしたり、店の人と話していく中で自分の好きなアルバムを覚えてくれたためである。リクエストをしたことも忘れ、月日も流れ、いつものように店にいると思いがけず、黙って以前にリクエストをしたアルバムをかけてくれるときがある。こんなときは素直に嬉しい。家でもしばらく聞いていなかったので、黙って聴き込んでしまう。同じアルバムでも家で聞くより、この店のときの方が不思議と聴き入ってしまう。気がつけば真剣に、あるいは微笑んで聴いている自分がいる。これだから「JAMAICA」通いはやめられない。
 また、自分の好きなジャズの傾向を店の人が覚えてくれると、その傾向の今まで聞いたことのないアルバムをかけてくれる。店にかなりの数のアルバムがあるにもかかわらず、その内容を把握している店の人には脱帽である。
 店の人が自分の好きなジャズの傾向を知っていても、あえて違う傾向のジャズもかける。店の人が言うには、店にせっかくこれだけのアルバムがあるのだから、好きなジャズの幅を広げて欲しいとのこと。かといって強制はしない。あるジャズマンだけが好きなのであれば、それもいいと思う、とも言っていた。
 毎回店に向かうときに今日はどんなアルバムが聞けるのか期待に胸をふくらませる。
 ときに店の人や他の客と語らい、ときにジャズに酔いしれる。
 ここでは日常を忘れさせてくれるひとときがある。掛け替えのない時間だと思っている。


極道の道から俺を救ったジャズのレコード [掲載記事]

(この文章はマスターの樋口重光氏が書きました。『おれたちのジャズ狂青春記』ジャテック・バード編[ジャテック出版]に収録されています。1991年初版発行。この記事をここで公開するためにマスターの許可を得ました。また、ジャテック出版には連絡が取れず2001年11月の時点で転居先が不明のため、社団法人日本書籍出版協会に相談したところ執筆者の許可があれば問題ないとのことだったので、ここに掲載します。)

 おかげさまで『ジャマイカ』も三十周年目を迎えることができた。ひとくちに三十年というが、極道だったこの俺がよくここまでやってこれたと思う。自分でも信じられないくらいだが、ジャズに関しては時代の流れに流されることなく、人が何と言おうと自分のやり方でやってこれた。しかしその蔭には数多くの人達の図り知れない支えがあったからこそであり、このことは一生忘れてはならないと胆に銘じている。
 俺にジャズを聴かせてくれた最初の人は、札幌でも草分のジャズ喫茶『リドー』の憧れのバーテンだった田崎さんである。田崎さんはとにかく格好良く、当時高校一年生の俺は学校をサボっては田崎さんに会いたくて『リドー』に通ったものだった。今思うとずいぶん迷惑を掛けたはずなのに、何ひとつ嫌な顔をせず面倒見て下さった。そんなお洒落で女にもてる田崎さんをみて、俺もいつかジャズ喫茶のバーテンをやってみたいという憧憬の念を強めていった。
 さらに記憶をたどれば、トランペットを持っていた叔父のことを思い出す。
 俺はわずか三歳の頃から、近所でも手のつけられない悪餓鬼だったようだ。悪いことに限って知恵が働くという、どうしようもないやんちゃ坊主で、五~六歳の頃には奉公に来ていた大の大人を苛めて泣かせたり、叔母を棒で殴って泣かせたという。どんなに母を困らせたことだろうと思う。しかし反面、親の言い付けには絶対服従で、未だに口答えをしたことがない。このことは俺の自満できる一つである。
 その頃、家には親父の弟が居た。終戦直後であり、音といえばラジオか蓄音機しかない時代にその叔父は、当時では珍しくトランペットを待っていた。彼は体が弱く、戦争も大詰めの大変な時にも家でのんびりとトランペットを吹いていた。まだ餓鬼だった俺は、叔父のトランペットの美しい音色が聴こえてくると、悪戯も忘れてうっとり聞き入っていた。いつか俺もトランペットを吹きたいと思ったのを、今でもはっきりと覚えている。ところが、肺を患っていた叔父は間もなく若い命を絶ってしまった。祖父母は、トランペットのせいで息子が命を縮めたと思い込んでいて、俺はそのトランペットが欲しかったが、頑として俺の手に触れさせようとはしなかった。
 この祖父というのがなかなかの大物で、当時は酒造会社を経営するほか、現在の白石区と厚別区の村議を九期務めている。瑞穂の池を設立するなど白石区のために貢献した爺さんの石碑があちこちに建っている。この爺さん、俺を医者にさせると張り切って、私立の中学に通わせた。入学当初は期待に添うよう少しは勉強もしたが、俺の夢はスポーツ選手になるか音楽を奏でるかだったので身が入らない。自分でいうのもおかしいが、百メートルを十二秒七で走ったし、スキーのジャンプもやった。中学生で大倉山を飛んだ者はほとんどいない頃である。怖いもの知らずの俺は、喧嘩もスポーツのような感覚でやった。ヤクザや不良を怖いと思ったことはない。一方では幼い頃のトランペットのことが忘れられず。ブラバンに入った。何故か楽器はトロンボーンだったが、少し吹けるようになった頃、親父と爺さんに知れて、断念せざるを得なかった。特に昔の人間である爺さんが、どうしてもやるなという。息子の早死にを俺にダブらせてしまうのである。俺は爺さんの気持ちが痛い程よく分かったし、俺は爺さんが好きだった。俺にどれだけの期待を掛けていたかも知っていた。「この子はド偉い人間になるんじゃ」と、いつも口癖のようにいっていた。しかし、そんな爺さんの期待を裏切ることばかりしていた。まず最初にしでかしたのは、中学三年で退学になったことである。
 俺は中学生のころから背が高く、結構大人っぽかった。洒も煙草もやっていた。ある日俺が赤線で女を買っていた時、運悪く臨検で回って来た奴にみつかりバレてしまった。後で親父が迎えに来た。親父は無言でいた。厳格な親父だった。世の中怖いものなしの俺も、この親父だけは別だった。小学生の時、言う事を聞かないといって滅茶苦茶に殴られたことがあったが、やられたら必ずやり返す主義の俺も、さすがに親父には何もできなかった。腹の虫が治まらない俺は、その代わり風呂場をマサカリで叩き壊したことがあった。
 市立の中学へ転校して間もなく、番長と名乗る奴が俺に喧嘩を売って来た。当然俺が勝ったが、その日以来そいつは俺の無二の親友となった。いろいろと悪いこともやったが、今時の餓鬼のようにカンパだ何だと弱者を苛めてイキがっているような、陰湿で情けない奴らとは違う。むしろ、そういう奴らから金を頂戴はしたが、下級生や女から金をせびったことはない。無二の親友が企画した泊りがけの同窓会(毎回、洒落た趣向で楽しませてくれるので、二十年ぐらい続いている恒例行事)でも、担任の先生はいっている。「樋口、今だから話せるけど、お前は本当に恐ろしかった。目を合わさないようにしていたんだ。しかし、悪い奴らを退治してくれるので非常に助かった」と。余談になるけど、昔は美しく可愛いかった女子達や先生と再会して酒を酌み交わすのは最高に楽しい。硬派ゆえに当時は、クラスメートや先生とあまり交流のなかった人間にとってはなおさらだ。ずっと続けていきたい。
 話は戻って、中学はどうにか爺さんに心配を掛けながらも卒業できたが、爺さんが望んだ〝医者への道〟からは遠く外れてしまった。しかし俺は、高校に入ったら真面目な生徒になるように頑張ろうと思っていた。自分の意志で北海高校を選んだ。希望に胸を膨らませて登校したある朝、どうしてこうなるのか、またもや俺の意に反してご丁寧にも他中学の番長だという奴が挨拶にやって来た。「お前が樋口か」、返事の代わりにそいつを蹴飛ばし殴っていた。売られた喧嘩は買うし、買ったら勝つ。仕方がなかった。そいつともその後、友人となった。
 その日のことは大事には到らなかったが、真面目にやろうとしてもどうしてもうまくいかないのは、俺の性分らしい。結局は二年後に教頭をぶん殴って退学となる。夜間高校へ入ったが、そこでもその調子でアウトとなり、計三回も学校を放り出されてしまった。しかし、爺さんの計らいで何とか地方の高校を卒業させて貰えた。
 高校生活は非常に楽しかったし、『リドー』の田崎さんとも知り合えた。クラブでサッカーをやっていたが、学校をサボっては田崎さんの店へ顔を出していた。『リドー』に通っているうちに、自分でもレコードが欲しくなってきた。それで俺は家を出て働きながら学校へ通うことにした。昭和二十九年のことだった。南六条西九丁目に『ボン』というジャズが聴ける店があり、そこに見習いで住み込んだが、皿洗いしかさせてもらえない。しかし、バーテンという職業は俺にとって雲の上のような存在であり、それが目標である以上、どんなに辛くとも意地悪されても耐えるのは当たり前である。早く一人前になり、珈琲がおとせるようになりたいと願いながら頑張った。当時の俺のアルバイト代は月四千五百円で、その頃ようやく出始めた国内盤が一枚千九百五十円、外盤は千歳の駐留軍で一枚四千円もした。一カ月間一生懸命に働いてレコード一~二枚しか買えないのだから、レコードを選ぶのに大変な時間を掛けて迷いに迷う。興奮して胸は高鳴るし、手は振るえて止まらない。買ってくると、毎日毎日そのレコードばかり聴く。次の給料日が待ち遠しくてしょうがない。この次は何にしようかと思いはせる毎日だった。こうして一枚一枚、俺の宝物は増えていった。ちなみに俺が最初に買ったレコードは、十吋盤のアール・ボスティックである。
 その頃の札幌の街は、終戦から十年程経っていたが、まだまだ荒んでいた。飲食店や商店、ボロい映画館等が密集していて、道にはいかがわしい女があちこちに立ち、男が通れば誰かれ構わず声を掛けていた。酔っぱらいや浮浪者がふらつき、ヤクザやチンピラもうようよしていた。そんな時代のジャズ喫茶であるから、今のように高品質のオーディオ装置から大音量が吹き出し、レコードも棚にびっしりと揃い、客はうなだれ腕を組み、足でリズムを取って、なんてものではない。もちろん、俺のようなジャズ狂の人もたくさん来てはいたが、近所のホルモン屋のおばさんや電気屋のおじさん、ヤクザの親分子分からインテリまで、それはさまざまな客であふれ、アットホームな感じさえあった。ペニー・グッドマンやオスカー・ピータソンがよく流れていた。
 夜はここで働き、昼は学校へ通い、その傍らお祭りや興業があれば的屋の仕事もして稼ぎまくった。俺はその店と町内のいわば用心棒のようなこともやっていたので、ある時ヤクザ同士の抗争にも巻き込まれたことがある。腹に何重もの新聞紙とサラシを巻き着けて、ヤッパ片手に総員の一人として出掛けて行った。実際には俺のような若僧は向こうの方がマトモに相手をしてくれなかったが、その抗争の撃ち合いたるや言葉では表わせない程壮絶なもので、毎日チンピラや酔っぱらい相手に喧嘩慣れしていた俺も、さすがにビビって小便をちびりそうになったくらいだ。
 俺はヤクザに憧れていたわけではないが、店にヤクザの親分がよく顔を出していて、俺のことを〝ボンズ〟と呼んで大層可愛がってくれた。俺もこの親分のためになることなら何でもしようと思っていた。しかし親分は、三年後に殺人の罪を身代を立てずに、自ら十年の刑に服すため受刑者となってしまった。刑務所内では、受刑者に習字を教えるなど、穏やかで模範囚だったそうである。出所披露をした時は、全国から数千人もの親分や幹部連中が集まった。落ち着いた頃、俺が女房と子供を連れて遊びに行ったら大層喜んでくれた。俺に「傍にいて働いてくれないか」といってくれたが、意志は決まっていたし、親妹弟や俺の家族を裏切るわけにはいかなかったのでキッパリ断わった。「お前が真面目に商売と家庭を大切にしていることがよく分かった。これ以上はいうまい」と話の分かるお方だった。以後、何度か店に訪ねて来た時も、ドアから一歩も足を踏み入れようとはしなかった。「堅気の客ばかりの中に俺のような者が入れば、お前に迷惑が掛かる」と気配りを忘れない人だったが、その親分もすでに他界された。
 この親分との出会いも含め、俺の高校生活は『ボン』で始まり『ボン』で終わったといっても過言ではない。今の俺がこうしてあるのも、『ボン』で働いたこと、『ボン』での日々があったからこそに違いない。人生の別れ道というのも大袈裟だが、極道に入らずに済んだのも『ボン』でジャズにのめり込んでいたからであろう。そして今、こうしてジャズ喫茶の店主に収まっているのだから、人生、どこでどうなるか全く分かったものじゃない。
 結局、高校を卒業するまで、『ボン』で働かせてもらった。その後、大学進学を考えなかったわけでもないが、〝どうせ退学になるに決まっている〟と利口な俺はほぼ内定していた明治大学への進学を取り止めた。この判断は正しかったと思う。悪い先輩が二人、明治大学のラグビー部に引っ張られたが、案の定二年も経たずに帰って来た。一人は全身に刺青を入れた有能なヤクザの幹部となって、もう一人はそのヤクザも騙すもっと悪い男になって……。刺青といえば、こんなことがあった。仲間の一人が刺青に憧れてしまって、どうしても入れたいという。そこで俺が彫ってやることにした。毒蜘蛛が蜘蛛の巣を張りめぐらせている構図だった。ところができ上がったのは何とビーチパラソルではないか。自分で彫っておきながらおかしくてしょうがない。そいつは当然ながら激怒したが、今さらどうにもならない。ビーチパラソルの刺青じゃ洒落にもならないとベソをかいていた。
 中学、高校と痩身で美男子だった俺も、二十歳の頃になると体重が九十五㎏もある巨体の持ち主となり、廻りはとても二十歳の若僧にはみえなかったようだ。『エンゼル』というダンスホールがあり、その頃そこのマネージャーとして働いていた。毎日、生バンドが入っていて、一緒に仕事をした仲間にドラマーの富樫雅彦がいる。この男はとにかく練習熱心で、暇さえあればドラムを叩いていた。数年前、弘前にドン・チェリーやスティーブ・レイシーと一緒に来たので聴きに行ったが、相変わらずの充実ぶりでまだまだ健在であることを知った。打ち上げでみんなと一緒に飲んで昔の話をした。久し振りに懐かしい想いに浸ってしまった。
  『エンゼル』では、呼屋の仕事も任された。東京まで行き、ミュージシャンとの出演交渉などもやった。ジョージ川口とビッグフォー等を招演させている。昭和三十三年といえば、まだ娯楽なんて呼べる洒落たものはなく、映画をみたり、朝鮮料理屋で食事をしたり、安いスタンドバーで飲む。ちょっと粋で垢抜けした連中はダンスホールで踊り明かす、まあ、せいぜいこんなものだった。千円もあれば女と飯を喰い、洒を飲み、旅館に泊まってもお釣りがきた。その頃俺は観音開きのクラウンに乗っていた。そもそも街に車なんてものが余り走っていなかった頃である。俺が一番羽振りの良かった頃だった。酒は毎晩ウイスキーなら一本は空けていたし、女はとびっきり上等なのと遊ばせてもらった。この頃のお金で七十万円もの大枚を経営者に貸していたんだから、今ではちょっと信じられない。この金は結局戻ってこなかった。
 そんなある日、火事になった。俺が汗水流して働いてコツコツと溜めてきた大切なレコードが、一瞬にして灰となり消え失せてしまった。金を積んでも簡単には手に入らない宝物である。俺はショックで膝がガクガクして止まらなかった。しばらくの間、レコードを買うことも聴く気力も失っていた。だが、『エンゼル』で働いていたバンドマンも仲間も底抜けに明るく、救われた気持ちだった。仲間達に支えられ気を取り戻すと、この仲間達が集まれるようなジャズの店をやろうかな、と漠然と考えるようになっていった。
 『リドー』から始まり、『ボン』で働き、『エンゼル』時代に商売を意識し、その四年後に念願ともいえる自分の店を開くことになった。今思うとジャズの店をやるべくしてやったように思えてならない。
 開店して最初の一~二年は暇だったが、『エンゼル』時代の仲間が集まり始めると、口込みで客の輪が広がっていった。みんなの励ましに恥ないように頑張ろうと心に誓った。それ以来、どうにか今日までやってこれたのも、昔から良いお客さんに恵まれたからで、ありがたいと心底思っている。
 音楽を通して多くの人達と接し、素晴らしい仲間がたくさんできた。俺もいつの間にか五十三歳になる。男は甲斐性があれば一生遊んで暮らすものだと思っている。餓鬼の頃からの夢は、もちろん〝家庭は大切に〟であるが、そのうえで〝妾の一人や二人は持つ〟というのが俺の信条だった。残念ながら未だに妾は持っていないが、若い時はとにかく遊んだ。良い時代だったと思う。店の売り上げを毎晩その日のうちに使い果たした。多い時は十人も俺の後ろをゾロゾロついて回った。女と約束をしていても、そいつらが邪魔をして女と二人きりにさせてくれない。女と泊まりゃすぐ女房にバラしてしまう。珈琲代も煙草代もないような、しかも臭くて汚い連中を家に連れて行き、飯を食わせ、酒を飲ませ、風呂まで入れてやり、それがいつの間にか居候となってしまう。しかし、気に食わない客は〝もう来るな〟と追い出した。中には次の日にまたやってくる奴もいた。が、こういう奴は見所があるので可愛がってやった。
 レコードはもちろんのことだが、こういう奴ら一人ひとりが『ジャマイカ』にとっては宝物なのだ。今じゃあみんな立派になって、俺に酒を飲んでくれなどとぬかしやがる。嬉しいじゃないの。
 ただ音楽に関しては、俺はいくら商売でも媚だけは売りたくないので、いくらリクエストされても掛けたくないレコードは掛けない。どうしても聴きたきゃ〝他の店に行って聴け〟と一言いうだけだ。音楽とは自分が楽しく、良いと思うものを聴くのが一番だと思っているので、人に押しつけもしない代わり押しつけられるのも嫌だ。ただ、俺なりに、ジャズは高度な音楽で奥が深く、聴けば聴くほど難解であり、面白くもある。それ故に、ジャズ一筋に三十八年間も追求して楽しんでいるわけである。人はそれぞれ聴き方も楽しみ方もみな違うと思うが、店に集まってくれるお客さんは〝ジャズ〟があり、その中に何かを感じ取っているから来てくれるのだと思う。
 数年前からの常連さんに錦織さんと千葉さんという方がいらして、ジャズの話をしていくうちに、三十八年も前の『リドー』の田崎さんと『ボン』時代のバーテン・ヨッチャンこと庭田さんの知人であることが分かった。お互い、この偶然に驚くのだが、これが単なる偶然だとは思えないのだ。お客さん同士やお客さんと従業員とが結ばれたカップルも数組あって、子供がうまれりゃあみせに来てくれる。嬉しい限りだ。俺のことを嫌っている人も含め、俺の回りにはジャズが媒体となった縁で結ばれている人達ばかりだと思う。縁があって今まで付き合ってきてくれた人達を、これからも大切にしていかなければ、という気持ちでいっぱいだ。三十年もやってくると、親子二代のお客さんも来てくれる。ここまできたのだから、できれば三代目も来てくれるように頑張りたいと思う。それには後二十年、現役でやれるだろうか。札幌のジャズファンのためにもこの地に根着きたい。こんなことをいったらキザだが、誰のためでもない。俺自身のためにだ。
 この数年は若い時の無茶が崇り、病気なんて縁のなかった俺にも容赦なく体内に住み着いてしまった。おかげて好きな酒も煙草も止めなきゃならない羽目になった。俺の先祖が北海道に移り、開拓してから俺は四代目の長男として生まれた。俺は自分の生き方に大いに満足してきた。それで俺と同じ人生を息子にも味わせたかった。子供にも三人恵まれた。ところが何としたことか、どれもみな金玉に恵まれなかった。夢は絶ち切れてしまった。しかし希望はあった。みんなそれなりに良い娘に育ってくれて、女房とは姉妹のように仲が良い。この女房が俺に負けないくらいジャズ気違いではある。ジャズに関してお互い譲らないところがあり、口論までするくらいなのに、あー、それなのに娘は誰一人として店を継いでくれる者はいない。しかし昨年、長女に子供が生まれた。待望の金玉を付けてだ。俺は飛び上がって喜んだ。物に比較や例えようのないほど可愛い。目に入れても痛くないとはこのことだ。俺はこの孫建哉に店を継いでくれとはいわないが(いってるようなものだが)、二十年後に、三代目のお客と建哉と大好きな酒を一緒に飲むのを唯一の楽しみにしている。
 最後に、俺のようなわがままな人間を承知のうえで、三十年も通ってきて下さった方々、今なお週に何度も顔を出して下さる田崎さんはじめ、お世話になったみなさんに深く感謝とお礼を申し上げます。


we STILL want Miles [追悼特集]

Miles Davis 追悼特集

’07年9月28日(金)

この日は「JAMAICA」で一日中マイルスをかけます。このタイトルは張り紙に書かれていたキャッチコピーです。常連客のWさんが考えました。


「JAMAICA」の音源 [店舗情報]

 店にレコードは1万2000枚、CDは4000枚ある。これだけの数があれば、自分のように毎週通っていても毎回初めて聞くアルバムに出会える。
 店とは別に自宅にもレコードが5000枚ある。このレコードは保存状態の良い原盤や廃盤などの貴重なレコードである。これは「JAMAICA」が雑居ビルに入っているため、万が一店が火事になったときを考えてのことと思われる。
 ママさんからこの話を聞いたときにこんなことも言っていたはずである。レコードは神様だから。その表情はにこやかだった。音源を大切にする気持ちが伝わってくる。この穏やかな笑顔からはジャズが好きで、ジャズマンへの尊敬の念を持っているように感じられた。

('07.8.4現在、自分がママさんから聞く)